2021年02月08日
カンヒザクラ~八重岳(その2)
祭りから一週間が過ぎた日の朝。八重岳地獄谷の早朝
の光景が見たくなり出かけた。
行楽客はまだ多く訪れていた。花も満開。三脚を据えた
方々も老若多いように感じた。
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](//img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/063_2.jpg)
坂の上から眺める向かいの山腹のカンヒザクラ。朝の
日差しを浴び、色彩も濃く映えていた。
車や人が多く、自由に撮影位置を選び撮るのはかなり
難しい。景観全体を撮るのはあきらめ、一部分を切り取
ることにした。
往来する車や他人の邪魔にならない遠くから望遠側で
手持ち撮影。パソコンで拡大して確認したらかなりブレ
ていた。
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](//img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/064_4.jpg)
前景に道路沿いの桜、画面の上部に近くの樹木の
緑葉を垂らした。
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](//img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/2371.JPG)
地獄谷の方を覗く。
センダン(たぶん)に日差しが当たり木の実が多く
垂れているのが目についた。
カンヒザクラの花が画面に占める割合を増やして
みた。どっちつかずで、1月末に撮った絵より印象
が落ちる。
(※)
沖縄タイムス(2021,2,7)の「大弦小弦」は
興味を惹かれた八重岳カンヒザクラのこと。
以下は、その中から引用させてもらった。
「この山にはかって芭蕉敷という集落があった。桜は
庭先や山あいの所々に根を張っていたが、並木とし
て整えられたのは1963年。駐留していた米軍が引
きあげる際、町長だった故渡具地政仁さんが米側か
ら2万ドルの資金を取り付けた。
町内から1本5ドルで苗を買い付け、戦で追われた芭
蕉敷の人々と植えたという。その後も丁寧に引き継が
れて一帯に7千本が咲く。・・・・」
読みながら、今は観光名所となっている東村ツツジ園
の創設に尽力した宮里松次村長のことを思い出した。
「大弦小弦」には、谷の呼称についての記述もある。
「八重岳での沖縄戦は熾烈を極めた。野戦病院には
女学生も動員された。『勝鬨(かちどき)峠』『乙女峠』
『地獄谷』、そして『うぐいす谷』へと呼び名を変えて今
に至る・・・」
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](//img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/2377.JPG%E3%81%86%E3%81%90%E3%81%84%E3%81%99%E8%B0%B7.JPG)
日が高くなるにつれ谷間がさらに明るくなってきた。
後方の山の上部まで組み入れた。
八重岳の野戦病院跡のことはwebサイト(観光情報
〈たびらい〉)に詳しい。
桜ルートの道路脇に白塗りの四角い柱の案内標識
がある。野戦病院跡は標識から百メートルほど奥。
「昭和20年(1941年)4月16、17日、宇土部隊撤
退後、およそ300人の重傷者が手榴弾と共に置き
去りにされるなどした。」(〈たびらい〉より)
沖縄タイムスの「大弦小弦」は次の文章で締められ
ている。
「桜の名所。悲しみも喜びも染め抜く薄紅を、春風が
静かに揺らしている。」
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](//img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/081.jpg)
帰り(下り)に見つけた。下りでなければ視界に入らない。
本部町八重岳。次に来るときはテッポウユリの頃か。
さようなら雲が春らしい (山頭火)
の光景が見たくなり出かけた。
行楽客はまだ多く訪れていた。花も満開。三脚を据えた
方々も老若多いように感じた。
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](http://img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/063_2.jpg)
坂の上から眺める向かいの山腹のカンヒザクラ。朝の
日差しを浴び、色彩も濃く映えていた。
車や人が多く、自由に撮影位置を選び撮るのはかなり
難しい。景観全体を撮るのはあきらめ、一部分を切り取
ることにした。
往来する車や他人の邪魔にならない遠くから望遠側で
手持ち撮影。パソコンで拡大して確認したらかなりブレ
ていた。
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](http://img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/064_4.jpg)
前景に道路沿いの桜、画面の上部に近くの樹木の
緑葉を垂らした。
地獄谷の方を覗く。
センダン(たぶん)に日差しが当たり木の実が多く
垂れているのが目についた。
カンヒザクラの花が画面に占める割合を増やして
みた。どっちつかずで、1月末に撮った絵より印象
が落ちる。
(※)
沖縄タイムス(2021,2,7)の「大弦小弦」は
興味を惹かれた八重岳カンヒザクラのこと。
以下は、その中から引用させてもらった。
「この山にはかって芭蕉敷という集落があった。桜は
庭先や山あいの所々に根を張っていたが、並木とし
て整えられたのは1963年。駐留していた米軍が引
きあげる際、町長だった故渡具地政仁さんが米側か
ら2万ドルの資金を取り付けた。
町内から1本5ドルで苗を買い付け、戦で追われた芭
蕉敷の人々と植えたという。その後も丁寧に引き継が
れて一帯に7千本が咲く。・・・・」
読みながら、今は観光名所となっている東村ツツジ園
の創設に尽力した宮里松次村長のことを思い出した。
「大弦小弦」には、谷の呼称についての記述もある。
「八重岳での沖縄戦は熾烈を極めた。野戦病院には
女学生も動員された。『勝鬨(かちどき)峠』『乙女峠』
『地獄谷』、そして『うぐいす谷』へと呼び名を変えて今
に至る・・・」
日が高くなるにつれ谷間がさらに明るくなってきた。
後方の山の上部まで組み入れた。
八重岳の野戦病院跡のことはwebサイト(観光情報
〈たびらい〉)に詳しい。
桜ルートの道路脇に白塗りの四角い柱の案内標識
がある。野戦病院跡は標識から百メートルほど奥。
「昭和20年(1941年)4月16、17日、宇土部隊撤
退後、およそ300人の重傷者が手榴弾と共に置き
去りにされるなどした。」(〈たびらい〉より)
沖縄タイムスの「大弦小弦」は次の文章で締められ
ている。
「桜の名所。悲しみも喜びも染め抜く薄紅を、春風が
静かに揺らしている。」
![カンヒザクラ~八重岳(その2) カンヒザクラ~八重岳(その2)](http://img01.ti-da.net/usr/s/e/k/sekiun2019/081.jpg)
帰り(下り)に見つけた。下りでなければ視界に入らない。
本部町八重岳。次に来るときはテッポウユリの頃か。
さようなら雲が春らしい (山頭火)