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2021年02月08日

 カンヒザクラ~八重岳(その2)

 祭りから一週間が過ぎた日の朝。八重岳地獄谷の早朝
 の光景が見たくなり出かけた。

 行楽客はまだ多く訪れていた。花も満開。三脚を据えた
 方々も老若多いように感じた。


 カンヒザクラ~八重岳(その2)


 坂の上から眺める向かいの山腹のカンヒザクラ。朝の
 日差しを浴び、色彩も濃く映えていた。
 
  
 車や人が多く、自由に撮影位置を選び撮るのはかなり
 難しい。景観全体を撮るのはあきらめ、一部分を切り取
 ることにした。

 往来する車や他人の邪魔にならない遠くから望遠側で
 手持ち撮影。パソコンで拡大して確認したらかなりブレ
 ていた。  



 カンヒザクラ~八重岳(その2)

 
 前景に道路沿いの桜、画面の上部に近くの樹木の
 緑葉を垂らした。




 カンヒザクラ~八重岳(その2)


 地獄谷の方を覗く。
 センダン(たぶん)に日差しが当たり木の実が多く
 垂れているのが目についた。

 カンヒザクラの花が画面に占める割合を増やして
 みた。どっちつかずで、1月末に撮った絵より印象
 が落ちる。


 (※)
 沖縄タイムス(2021,2,7)の「大弦小弦」
 興味を惹かれた八重岳カンヒザクラのこと。

 以下は、その中から引用させてもらった。

 「この山にはかって芭蕉敷という集落があった。桜は
 庭先や山あいの所々に根を張っていたが、並木とし
 て整えられたのは1963年。駐留していた米軍が引
 きあげる際、町長だった故渡具地政仁さんが米側か
 ら2万ドルの資金を取り付けた。

 町内から1本5ドルで苗を買い付け、戦で追われた芭
 蕉敷の人々と植えたという。その後も丁寧に引き継が
 れて一帯に7千本が咲く。・・・・」


 読みながら、今は観光名所となっている東村ツツジ園
 の創設に尽力した宮里松次村長のことを思い出した。


 「大弦小弦」には、谷の呼称についての記述もある。

 「八重岳での沖縄戦は熾烈を極めた。野戦病院には
 女学生も動員された。『勝鬨(かちどき)峠』『乙女峠』
 『地獄谷』、そして『うぐいす谷』へと呼び名を変えて今
 に至る・・・」




 カンヒザクラ~八重岳(その2)


 日が高くなるにつれ谷間がさらに明るくなってきた。
 後方の山の上部まで組み入れた。



 八重岳の野戦病院跡のことはwebサイト(観光情報
 〈たびらい〉)に詳しい。
 桜ルートの道路脇に白塗りの四角い柱の案内標識
 がある。野戦病院跡は標識から百メートルほど奥。
 
 「昭和20年(1941年)4月16、17日、宇土部隊撤
 退後、およそ300人の重傷者が手榴弾と共に置き
 去りにされるなどした。」(〈たびらい〉より)

 沖縄タイムスの「大弦小弦」は次の文章で締められ
 ている。

 「桜の名所。悲しみも喜びも染め抜く薄紅を、春風が
 静かに揺らしている。」




 カンヒザクラ~八重岳(その2)


 帰り(下り)に見つけた。下りでなければ視界に入らない。


 
 本部町八重岳。次に来るときはテッポウユリの頃か。


   さようなら雲が春らしい (山頭火) 




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